東京キッドブラザース(設立当時は「東京キッド兄弟商会」)は、1968年12月、寺山修司主宰の「天井桟敷」を脱した東由多加が大学時代の仲間に声を掛けで集まった8名でスタートした。
旗揚げ公演「交響曲第八番は未完成だった」初日の観客はわずか3名だったが、楽日には舞台まで観客が溢れる大盛況で幕を閉じる。
次回作「東京キッド」が、来日中のブロードウエイミュージカル「ヘアー」の演出家の目にとまり、その翌年に上演された「黄金バット」を引っさげて“キッド”はニューヨークへ渡る。
キッドのミュージカルは「愛と平和(連帯)」を掲げる若者たちの戦いであった。
東の言葉で言えば「誰もが陽気に怒り、明日に向かって撃ちつづけた反乱の時代」
ニューヨークでの成功の後、後楽園ホールで「帰ってきた黄金バット」を上演する。
71年には総勢80名の『キッド旅行団』を結成し「八犬伝」で4ヶ月に渡るヨーロッパ(~北アフリカ)ツアーに出る。
さらに翌72年「西遊記」でも旅行団とヨーロッパツアーを行なう。海外を股にかけ勢力的に活動を続けたキッドであるが、海外公演初のロックミュージカル「ザ・シティ」の公演が失敗に終わると、帰国後、劇団の所持金はわずか五百円。
大勢の劇団員が去っていき、残った役者は一人であった。
ここでひとつの時代が終わり、東はロックミュージックに別れを告げる。
設立から6年が経ち、東はひとつの時代が終わったことを噛みしめながらも、それでも自らが情熱を傾けることができるのは「ミュージカル」しかないと 著書のなかで語っている。
78年、新宿に『シアター365』オープン。
文字通り1年間365日芝居をやろう!という試み。 劇団員全員で劇場作りから始める。「彼が殺した驢馬」「冬のシンガポール」そして今作品の「失なわれた藍の色」が一年間で次から次へと上演された。
この当時、柴田恭兵、三浦浩一、純アリス、坪田直子らが在籍。
連日、劇場に入りきれないほどのお客さんを集めTV、マスコミからも注目を浴び話題となる。
ここからキッドは再び復活を見せ、最盛期を迎える。
演劇界としては初の日本武道館にて「十二月の夢」を上演。
テレビ朝日開局20周年記念番組「南太平洋ミュージカル・サラムム」TV放映。
79年「サラムム」を皮切りに「ハメールンの笛」「街のメロス」「オリーブの枝」「哀しみのキッチン」と立て続けに上演。全国公演で成功をおさめる。
81年末に「SHIRO」を持って再びN.Y公演。
82’6月原宿に稽古場兼小劇場「ワークショップ」をオープン。
第一回公演は「ペルーの野球」。
83’「SHIRO」で全米ツアーを決行。
84‘KID15周年公演「桜んぼ戦争」 パルコ・パート3にて上演。
同年「哀しみのキッチン」「失われた藍の色」を読売ホールにて再演。
85’「スーパーマーケットロマンス」
86‘「シシリアでダンス」
86’「冒険ブルックリンまで」
全国50か所近い地方公演を成功させる。(この「冒険ブルックリンまで」は後にファン投票で25周年記念公演の1位に選ばれる秀作である)
87’7月、稽古場を原宿から(東京港区)海岸3丁目『WATER』に移し 「遠い国のポルカ」にて全国ツアー。
88’「夢の湖」はキッド創立20周年記念の作品である。
89’「musical kid」
89’「蛍の町」
「蛍の町」は、「冒険ブルックリンまで」「夢の湖」に続く“街シリーズ”の三部作の完結編と東由多加は語っている。 後に東は『もしこれまでのキッドの作品の中で、キッドを代表する作品は何かと言われたら、多分この三作品から選ぶことになる』 と語っている。
90’「夕空晴れて」
91’「葡萄畑のラビット」
92’「桜組」
92’25周年記念公演「冒険ブルックリンまで」を上演。 年末には「愛の磁力」と銘打って東京ベイNKホールにてコンサートを行なった。
(三浦浩一、純アリスが数十年ぶりに参加)
93’「冒険ブルックリンまで」と「夢の湖」で全国ツアーを行なう。
94’「深川ホームレスタウン」(は 東由多加が手掛けた時代劇。山本周五郎作品がコラージュされている)
94’「草原の木馬」
95’「スリーチルドレン」「哀しみの酒場のバラード」
96’「時哉の冒険」
97’「はつ恋」
そして1999年東京キッドブラザース公演として行なわれた 「BUS STOP」を最後にキッドは活動を停止。
自らの作・演出によるミュージカル80作品以上を上演。
54歳の短い人生を終える
2000年4月 東 由多加 永眠